仕事の悩み
このページは、主に働き盛の若い男性たちが書き残した遺書を時代順に紹介する。そこには、厭世、徒労、弱音、職場の人間関係についての悩みなどが綴られていて、今の人が読んでも共感できるのではないかと思う。
1909(明治42)年
明治四十二年、大阪の商店に勤めていた小僧が遺書をのこし自殺した。以下はその遺書である。
(「日本自殺情死紀」p149)
この遺書についての考察をこちらにまとめました。
1911(明治44)年
②
1911年8月22日午後7時半頃、若い男性が神奈川山王村の線路に飛び込み轢死した。その遺書には
山々巡り巡りてここに死す
などと綴られていた。文末に東京日本橋区の住所が書かれていたため身元判明、この住所で働いていた24歳の青年だった。母子家庭で育った彼は遊びもせず倹約し故郷の家族に送金していた。ただし、元々仕事が遅いようでそのことを上司から口汚く罵られたこともあった。死ぬ前にも叱られ、内気で神経質な彼はそのことを気に病んでいたようだ。災難なことに脚気にもなり医者に診てもらうが症状は悪化していたという。口汚く罵られるもつらいが故郷の家族のため簡単にやめるわけにもいかずストレスを抱えたまま限界を迎えたのだろうか。
(読売新聞1911.8.24 朝刊)
1931(昭和6)年
③
青雲の志成らずして自殺する
失業都市東京に希望を失つたルンペン
1931年8月31日午後12時半頃、東京府蒲田町の線路を京浜電鉄髙輪発橫浜行下り電車が走行中、20代くらいの男性が飛び込み、無惨な最期を遂げた。その懷中に上記の遺書あった。(読売新聞1931.9.1 朝刊)
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1937(昭和12)年
1月
④
1937年1月4日午後3時ころ、芝三田署の受付 へ茶色の背広を着た靑年がまっさおになって駆け込み「青酸カリを飲みました」と叫んでその場にパッタリ 倒れた。驚いた署員が、 病院に担ぎ込もうとしたが途中で絶命した。懐中に妹宛の遺書があり力の弱い自分はこの深刻な社曾に堪へ切れない
とあった。
(読売新聞1937.1.5 朝刊)⑤
自分は大馬鹿者で人間として価値のない男だ死によって一切を清算する京都市四條室町中野○次郎
1937年1月16日午前6時40分静岡清水市浜田東海道線踏切で20代男性の轢死体が発見された。清水署で検死しところ身元が判明。東京市世田谷に住み、同区の区役所に勤めていた男性だった。同時、世田谷区役所は人手不足で、激務に追われた男性は心身を病んだらしく、3日前の13日には体の不調を理由に早退していた。手帳には上記の遺書が認められていた
(読売新聞1937.1.17 夕刊)
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6月
⑥
この世の中にこんな鬼のやうな主人が二人とあるか、自分の自殺原因左の如し
一、○○支配人、○○○社員は朝遲く出て夕方早く歸る
一、兩名は晝間から遊びにゆく一、事の善悪を問はず終日苦情をいふ
一、兩名は店の金で飲酒する
一、二人で組んでどこまでも私を苦しめる
一、社長が來れば自分だけいい子にならうとする
日本人よ、この店に來るな來たら最後である、死なねばならん
1937年6月7日朝六時ごろ、神田区花房町にある食用染料卸商の店に勤める24歳の青年が店の裏手にある倉庫内で死んでいるのが発見された。ハリと細継をかけ縊舩してゐた。懐中には父親に宛てたものの他に宛名なしでもう一通遺書があり、冒頭の文が書かれていた。この青年は元々大阪の本社に勤めていたが、転勤して東京の支店にやってきた。記事には名指しされた支配人のコメントも掲載されている。
いはく同君は日頃から多少変人扱ひされてゐた無口な青年でしたが別に私などが恨まれるやうなことは思ひあたりません
(読売新聞1937.6.8 夕刊)
1960(昭和35)年
1960年のことである。静岡県から上京し都内で住み込みで働いていたある青年は体に石を巻きつけて海に飛び込んだ。夏の盛りの8月3日、朝9時45分頃に東京都港区芝浦海岸通りの竹芝桟橋で水死体となって発見された。
仕事ができない
と綴られた遺書が発見された。
(東京朝日新聞1960.8.3 夕刊)