ここでは、家庭内でのトラブルが原因で自死に追い込まれた女性が書いた遺書を集めてみた。
かなりの長文もあるが、家庭内での人間関係の描写が細かく書かれておりとても興味深い。
個人的には、④の遺書が一番好きだ。
因縁の相手である姑の人物描写もディテールに富んでいるし、その時の書き手の心情も細かく綴られ百年以上も昔の出来事のハズなのに、その時の情景がありありと浮かんでくるようだ。
姑や職場のお局との関係に悩んでいる人は共感できるのではないか。
1903(明治36)年9月
①
1903年9月8日午後五時頃、京橋区佃島へ女性の溺死体が漂着した。死後二日間ほどたっており、懐中に上記の遺書を所持していた。
遺書に元夫の住所、氏名が書かれていたことから、警察はこの男を召喚し取調べた。しかし、三月下旬離別したので死体を引き取る気はないとの返答だったので遺体は區役所へ引渡された。
(1903.9.9 東京朝日新聞 朝刊)
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1915(大正四)年十二月
②
次の遺書は大正四年十二月二十日淡路島に通う船中から子供を抱いて投身した女性が書いたもの。この女性は兵庫県の資産家から淡路の旧家に嫁ついだが、夫と姑との関係に悩みに悩みついには自死を決意するにいたる。読んでもらえば分かるだろうが、夫の意に添えば姑の反感を買い、姑に気を使えば夫の怒りを買うまさに板挟み状態で、これでは心身ともにすり減って当然だろう。
ちなみに、この遺書は淡路新聞に掲載され当時、名文として世間に評判になったという。
かなり長いものだか載せておく。
1919年4月24日、午前8時頃、神奈川県鎌倉町の松林の中で枝に帯をかけて縊死した女性の遺体が発見された。
死後十時間は経過しており、妊娠6カ月の身重であった。全身海水に濡れ砂にまみれていたことから、海に飛び込んだもののそれでは死に切れずに首を吊ったものと推測された。
容貌から年齢は20代後半、中流以上の家庭の婦人ではないかと思われた。 万年筆で書き綴られた遺書には上記の文 が綴られていた。
(東京朝日新聞1919.4.25朝刊)
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